2025 03-17 |
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2007 09-25 |
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私の中のモーニング娘。
よっちゃんの卒コンでガキさんが発したとされる言葉を題材とした小説。 誤解を恐れずに書くと、自分はこの作品がハロプロ小説として特別完成度が高いとか、超絶的に文章が上手いとかいうふうには思わない。それでもこうして取り上げるのは、この作品が「モーニング娘。の記憶」というヲタにとって避けては通れないテーマに真正面から取り組んでいて、かつ自分が読後に色々と考えさせられたからだ。ただ単に「面白かった」だけでなく、そこから発展して考えをめぐらすことができるような作品は、まずそれだけでも十分素晴らしいと思う。 さて、自分はこれを記憶をめぐる物語として読んだ。 感想レスにもあるように、タイトルの「私の中のモーニング娘。」はたとえばこの作品を読む自分の中のモーニング娘。であり、作品を書いた人の中のモーニング娘。でもあり、そして内容どおりガキさんの中のモーニング娘。でもあると思う。それらは個々のヲタが持っているモーニング娘。をめぐる記憶だ。そしてその記憶は、物語性を帯びた歴史としてヲタの間である程度共有されている。なぜなら、ヲタはモーニング娘。に起こった多くの出来事や場面を、テレビやコンサートを通じて同じように目撃しているからだ。その点では、自分や書いた人やヲタガキさんの、一定期間におけるモーニング娘。に関する記憶はある程度一致しているだろう。もちろん、それぞれの出来事に対する感想や細かい部分の記憶は違っているだろうけど、大枠では同じであるといえると思う。 けれども一方で、自分をはじめとするヲタとガキさんとの間には決定的な違いがある。それは、現在ガキさんは娘。の一員だがヲタはそうではないということだ。このことには二つの意味があると思う。 一つは、ヲタの中のモーニング娘。はいつまで経ってもメディアを通した(もっと言えば演出された)モーニング娘。に留まっているのに対し、ガキさんの中のモーニング娘。はある時期以降、直に接しているひとりの人間や一つの集団であるということだ。これはもうあまりに大きな断絶だ。書いた人もおそらく自分と同じようにモーニング娘。ではない立場の人だろうから(100%そうだとは言い切れないけど)、この作品は、演出されたモーニング娘。の記憶しか持たない人間が、生の姿を知っている人間の記憶を想像して書いた作品ということになる。だから、ネタに走ろうと思えばいくらでもできるし、もっと劇的な展開や突拍子もないエピソードを挟む事だってできたはずだ。生の姿なんて自分たちヲタには永遠に知りえないから。多くのネタは、むしろそこを利用して面白さを生んでいるといえるだろう。 しかし、書いた人はあくまでもリアリティというか、もっともらしさや読んだときの違和感のなさに気を配っているように思える。これは本当に難しいことだろうけれども、あえてそこに真正面から取り組むところが実に凄いなぁと感じる。そして、それは結構成功している部分も多いと思う。第四章のプレゼントのエピソードや、第五章などはとても上手いと思うし、特に好きな話だ。 次に、ガキさんが現在モーニング娘。であることのもう一つの意味は、ガキさんはモーニング娘。を記憶の中に持ちながら、自らも今まさに記憶を紡いでいる当事者であるということだ。 記憶というのは、ある程度現在の行動や思考に影響を与える。自分の場合、ある時期からモーニング娘。に歴史性を求めるのを極力避けてきたんだけれども、それでも過去の記憶が現在のモーニング娘。やOGに関する気持ちと全く無関係であるとはとても言えない。過去のモーニング娘。に関する記憶が、現時点における自分の中のモーニング娘。を形作っている部分は確かにある。 この作品のガキさんにおいても、記憶の中のモーニング娘。と今の「私の中のモーニング娘。」とが相互に絡み合ってストーリーが進んでいく。 ところが、ガキさんは最終的に、記憶の中のモーニング娘。をあくまで記憶として封印してしまう。現在のモーニング娘。を記憶を通じて見ることを一時的に停止し、自らが記憶を紡ぎ、ヲタの記憶に刻まれていくことのみを選択する。この判断は完全に書いた人の裁量によるものだけれども、自分はリアルガキさんにもそうあってほしいなぁと思った。なぜなら、ヲタの記憶に刻まれていくのは、モーニング娘。のメンバーにのみ許される特権だから。その意味で、最後の一文はとても好き。 長々と書いてしまったけれど、本当に色々なことを考えさせられた。 非常に内省的な内容なので、ともするとこれといったストーリーが掴みにくくなる可能性もあったと思う。しかし、記憶と現在を交互に分けて書くやり方と印象的なエピソードで、とても分かりやすく読むことができた。最後は随分あっさりした印象を受けたというか、もう少し膨らむのかなとも思ったけど、それでも十二分に楽しめる作品だった。 PR |
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2007 09-24 |
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今回は第8回さしみ賞のことは一旦休止して、こんな企画もありましたシリーズ第1弾、8月のMFN。ただ、めっちゃくちゃに長文になってしまったので2つに分けることにした。
あ っ ち 最初に断っておかなければならないのだが、このスレを選んだ理由はスレ内で8月中に書かれた内容が特別面白かったからではない。8月12日にこのスレが1000到達した時、自分は今後折に触れてこのスレを読み返すだろうという予感を持ったからだ。決してハイペースに更新されるスレではなかったけれど、更新が楽しみであり好きなスレだった。 このスレは非常に雑多なスレであったと思う。ネタと言ったときに通常想定されるようなものも書かれているし、ネタスレ考察のようなものも書かれている。また、狩狩やハロプロで起こっていることに対するその時々の雑感もある。特に印象に残っているものをひととおり挙げると、疑問符感嘆符論や顔文字ファイルにおけるいたづらさん=紺野ヲタ論、interviewおよびinterview 2、そして最近のMAME・KAME攻略記など。 読み応えがあり面白かったという点で、そして短いレスにも中の人の創意や言葉選びの巧さが垣間見られるという点で、いわゆる普通のネタ以外の書き物も含めて、このスレに書かれたすべてのものをネタと呼んでいいんじゃないだろうか。たとえばアイボマさんのネタスレ批評がおそらく一つのネタとして認知されているように、このスレもネタスレを楽しむネタ(メタネタ)というあり方を示していたと思う。本当に良スレだった。次スレがないのが残念。 したたり三昧 「二枚舌足らず」の次スレから、新垣塾が海へ行く話。途中から9月に入ってるけど気にしない。 本当に、何でこんなに面白いんだろう。さゆの表情とか、いきなりのもんじゃ焼きとかプレミアムモルツ噴いた。あと、“れいにゃちゃん”のう○こからカキ氷への場面転換の仕方はAAならではで、これも純粋にいいなぁと思った。 このシリーズは、キャラクターがしっかり機能してテンポよく話が進んでいく。AAも適度に力が抜けてるからとてもさくさく読めるし、一見簡単に書いていそうな感じがするけど(失礼)、実際にこの雰囲気を真似しようとするとかなり難しいんじゃないかな。このネタに限らず、「いい加減にいい加減」を実践するのは実はハイレベルな技術だと思う。 |
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2007 09-07 |
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第9回さしみ賞に高まる期待。
進行役の2人 第8回さしみ賞は、25日間という比較的長めの投稿期間を設けた。 狩狩はネタに特化した板だし、自分はさしみ賞を賞であると同時にネタを読むイベントとして意識していたので、選考スレを進めていくにあたっても、少しネタスレ的な要素を盛り込もうと思っていた。長い投稿期間中、自分が事務的な事項のみをただ書き込んでいくよりは、選考スレも楽しんで読んでもらえる方がいいだろうと考えたからだ。 そこで進行役に選んだのがあいぼんさんとポンちゃんの2人。 (当時)この2人はハロプロを離れてしまっていたけれど、自分は初めて自スレを持ってネタ書き始めた時からこの2人をよく使ってきたし、それぞれの顔文字にも非常に愛着があった。だから、この2人を使うことはすぐに固まった。 まあ実際に書いていても楽しかったし、非常にスムーズに内容がまとまっていったように思う。この2人を使うと勝手に喋ってくれるというか、あまり根を詰めて考えなくても自然に台詞が出てくるというか。人それぞれ、書きやすいメンバーとそうでないメンバーというのは確かにあるんじゃないかと思う。 ただし、途中から質問などもあらかた出尽くして、2人で進めていくだけの書くべき内容も少なくなってきたので、あいぼんさんには一時消えてもらったけど。 ところで、2人のやり取りを書いていて非常に楽しかった一方で、こうしてこの2人を頻繁に使うことはもうあまりないかもしれないなぁと考えたりもした。特に自分が普段書いているネタの場合、楽屋や仕事現場などを舞台にすることが多いので、ハロプロから去ってしまった人を登場させることはそうない。今後彼女たちを使うとすれば、自分ではあまり挑戦したことのない形式のネタに取り組んでみる必要があるだろうなと思った。 |
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2007 08-29 |
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自分でも腹立たしくなってきたので、再びトップ画像を替えてみた。
お題について システム面ではかなり過去のさしみ賞を踏襲した部分が大きかったので、独自性を打ち出すとしたらそれはお題の部分になるだろうと思っていた。 実のところ、当初お題を設けずにまったくフリーのコンテストにしようかという考えも少しだけあった。 お題を出すというのは、書く人に一定の縛りを与えるということだ。だから、あまり難しくすると何も書けないという状態を生んでしまうことになる。しかし、全く縛りを設けないと今度は判定の基準が分かりにくくなってしまう(公平さを保つのが難しくなる)ので、結局フリーテーマの案は棄却した。 そんなこんなで考えた結果、 1.「何だろう、これ」というフレーズから始める。 という二つの条件が最終的にまとまった。 最初に採用することにしたのは条件2の方で、これはテーマというよりは形式の指定とでもいうべき条件に近い。 人数を指定するというアイデアはわりと早い時期からあった。問題はその数ということになるが、3人にしたのはさしみ賞選考スレにも書いたけれど、もう一度説明を加えておく。 多くのネタは登場人物の会話を中心として成立している。会話の最小単位であり、基本でもあるのは2人でのやりとりだ。そして、ネタの中における2人による会話はたいていボケ/ツッコミ、もしくは対比という構図をなしていることが多い。そこに新たな3人目が加わることで、ボケ/ツッコミを仲介したり、三者三様になったり、色んな展開が生まれてくるだろう。その持って行き方に注目してみよう考えた。 この条件は非常にうまく消化しているものから苦労したと思われるものまであったけれど、読む側としては面白かった。また、どんな3人を使うかという副次的な楽しみもでき、まったく予想外の組合せを使ったネタには驚かされた。 もう一つの条件1の方は、話のとっかかりとして設定したもので、こちらにはあまり深い意味は持たせていなかった。だから、「何だろう、これ」とは言っても、具体的に「これが何か」をテーマとしたネタはそう多くないだろうと予想していた。実際、会話の起点として用いられているネタの方が圧倒的に多かったと思う。 そんな中で「これが何か」をテーマとしたネタには意表を突かれ、最終的に優秀作品として選ばせてもらった。 今回のお題に関して、自分自身はそこまで難易度の高いものだとは思っていなかったが、レスを読むと意外とハードルが高くなってしまったような印象がある。 お題を設ける以上制約が出来るのは避けられないけど、今回独自性に走ろうとするあまりそれがきつくしてしまったのかもしれない。 特に、たとえばシリーズや夢物語など、既に一つのパターンが成立してしまっているスレでのみ書いている人にとっては、スレの世界とどう結び付けていくかが難しかったのかなと思う。 主催にあたってネタを多く読めるイベントとして成立させたい、というのが一つの大きな目標だった。 お題の難易度がそこにどの程度影響したかはわからないけど、お題による制約はかなり熟考すべき課題だなぁと、スレを進めていく中で感じた。 今回はここまで。 |
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