2024 11-21 |
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2007 09-25 |
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私の中のモーニング娘。
よっちゃんの卒コンでガキさんが発したとされる言葉を題材とした小説。 誤解を恐れずに書くと、自分はこの作品がハロプロ小説として特別完成度が高いとか、超絶的に文章が上手いとかいうふうには思わない。それでもこうして取り上げるのは、この作品が「モーニング娘。の記憶」というヲタにとって避けては通れないテーマに真正面から取り組んでいて、かつ自分が読後に色々と考えさせられたからだ。ただ単に「面白かった」だけでなく、そこから発展して考えをめぐらすことができるような作品は、まずそれだけでも十分素晴らしいと思う。 さて、自分はこれを記憶をめぐる物語として読んだ。 感想レスにもあるように、タイトルの「私の中のモーニング娘。」はたとえばこの作品を読む自分の中のモーニング娘。であり、作品を書いた人の中のモーニング娘。でもあり、そして内容どおりガキさんの中のモーニング娘。でもあると思う。それらは個々のヲタが持っているモーニング娘。をめぐる記憶だ。そしてその記憶は、物語性を帯びた歴史としてヲタの間である程度共有されている。なぜなら、ヲタはモーニング娘。に起こった多くの出来事や場面を、テレビやコンサートを通じて同じように目撃しているからだ。その点では、自分や書いた人やヲタガキさんの、一定期間におけるモーニング娘。に関する記憶はある程度一致しているだろう。もちろん、それぞれの出来事に対する感想や細かい部分の記憶は違っているだろうけど、大枠では同じであるといえると思う。 けれども一方で、自分をはじめとするヲタとガキさんとの間には決定的な違いがある。それは、現在ガキさんは娘。の一員だがヲタはそうではないということだ。このことには二つの意味があると思う。 一つは、ヲタの中のモーニング娘。はいつまで経ってもメディアを通した(もっと言えば演出された)モーニング娘。に留まっているのに対し、ガキさんの中のモーニング娘。はある時期以降、直に接しているひとりの人間や一つの集団であるということだ。これはもうあまりに大きな断絶だ。書いた人もおそらく自分と同じようにモーニング娘。ではない立場の人だろうから(100%そうだとは言い切れないけど)、この作品は、演出されたモーニング娘。の記憶しか持たない人間が、生の姿を知っている人間の記憶を想像して書いた作品ということになる。だから、ネタに走ろうと思えばいくらでもできるし、もっと劇的な展開や突拍子もないエピソードを挟む事だってできたはずだ。生の姿なんて自分たちヲタには永遠に知りえないから。多くのネタは、むしろそこを利用して面白さを生んでいるといえるだろう。 しかし、書いた人はあくまでもリアリティというか、もっともらしさや読んだときの違和感のなさに気を配っているように思える。これは本当に難しいことだろうけれども、あえてそこに真正面から取り組むところが実に凄いなぁと感じる。そして、それは結構成功している部分も多いと思う。第四章のプレゼントのエピソードや、第五章などはとても上手いと思うし、特に好きな話だ。 次に、ガキさんが現在モーニング娘。であることのもう一つの意味は、ガキさんはモーニング娘。を記憶の中に持ちながら、自らも今まさに記憶を紡いでいる当事者であるということだ。 記憶というのは、ある程度現在の行動や思考に影響を与える。自分の場合、ある時期からモーニング娘。に歴史性を求めるのを極力避けてきたんだけれども、それでも過去の記憶が現在のモーニング娘。やOGに関する気持ちと全く無関係であるとはとても言えない。過去のモーニング娘。に関する記憶が、現時点における自分の中のモーニング娘。を形作っている部分は確かにある。 この作品のガキさんにおいても、記憶の中のモーニング娘。と今の「私の中のモーニング娘。」とが相互に絡み合ってストーリーが進んでいく。 ところが、ガキさんは最終的に、記憶の中のモーニング娘。をあくまで記憶として封印してしまう。現在のモーニング娘。を記憶を通じて見ることを一時的に停止し、自らが記憶を紡ぎ、ヲタの記憶に刻まれていくことのみを選択する。この判断は完全に書いた人の裁量によるものだけれども、自分はリアルガキさんにもそうあってほしいなぁと思った。なぜなら、ヲタの記憶に刻まれていくのは、モーニング娘。のメンバーにのみ許される特権だから。その意味で、最後の一文はとても好き。 長々と書いてしまったけれど、本当に色々なことを考えさせられた。 非常に内省的な内容なので、ともするとこれといったストーリーが掴みにくくなる可能性もあったと思う。しかし、記憶と現在を交互に分けて書くやり方と印象的なエピソードで、とても分かりやすく読むことができた。最後は随分あっさりした印象を受けたというか、もう少し膨らむのかなとも思ったけど、それでも十二分に楽しめる作品だった。 PR |
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すげええええええ
こんな長文で感想を書いてもらえるとは思いませんでしたよ。 どうもありがとうございます。 私がこの小説でやりたかったことが、 ほぼ全てこの文章の中で説明されているのに驚きました。 最後があっさりしているのはガキさんの現在進行形の 内面を描いたお話だったからだと思います。 本当はラストなんてないんですよね。 だからラストも色々考えたんですけど、長くても短くても 淡白でも重厚でもどんな文章や構成で書いても 「なんかしっくり来ないなあ」という感じでした。 リアル設定の限界をちょっと感じましたね。
Posted by homare [Edit]
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>だからラストも色々考えたんですけど、長くても短くても
>淡白でも重厚でもどんな文章や構成で書いても >「なんかしっくり来ないなあ」という感じでした。 すんなりと終わってしまった印象は確かにあったんですが、 違和感はありませんでした。 あれが一番自然なんじゃないでしょうか。 かなりリアルに近い形で書いてあるので、 あまり劇的な展開にするのも収拾の付け方が難しそうですし。 そのあたりは「現在進行形の内面を描いたお話」ということに尽きると思います。 あと、本筋とは全然関係ないんですが、 誉さんは一人称に「あたし」をよく使いますよね。 それが少し特徴的だなぁと思いました。
Posted by Shigin [Edit]
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>誉さんは一人称に「あたし」をよく使いますよね。
ハロモニなんかを見ていると、 ハロプロメンの多くの一人称は「あたし」のような気がするのですが。 特徴的ですかね? 参考までに飼育のスレをランダムに見てみたんですが、 「私」「あたし」それに語り手の名前と様々でした。 あと三人称視点も結構たくさんありました。 私はあのくらいの年齢の女の子に「私」を使うと、 ちょっと硬いかなあという感じがあるんです。 「私」も「あたし」も音はほとんど変わらなくて 日常生活ではそこまで意識はしないんですけど、 文字にするとやっぱり「私」は硬いんですよね
Posted by homare [Edit]
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>ハロモニなんかを見ていると、
>ハロプロメンの多くの一人称は「あたし」のような気がするのですが。 長らくテレビで一部を除くハロメンを見ていないので、どうだったか思い出せないんですが…… 普通の小説などを読んでいると「私」が圧倒的に多いように思うので、その意味で「特徴的」と書いたまでです。 でも、娘。小説界隈だとそう珍しいことでもないんですかね。 個人的には、「あたし」と出てきた時点で、 語り手=女性であるとほぼ断定できるというメリットがあるように思います。 「私」は男女とも使いますが、男性で「あたし」を使う人は伝統芸能に従事している人くらいしか思いつきませんし。 あと、「私」より「あたし」の方が より語り手の自我が強調されるようにも感じます。
Posted by Shigin [Edit]
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